野田九浦氏について

野田九浦(のだきゅうほ)画伯は、本名を道三といい日本芸術会員(昭和22より)金沢美術大学名誉教授(昭和25年4月より29年3月まで同校勤務)、昭和33年からは日展の顧問を務めるなど活躍されていた。
 
画伯は、明治12年(1879年)12月21日東京の根岸に、野田鷹雄の三男として生まれ、父の函館税官長に伴い、明治16年北海道に渡り、明治28年当時画壇の逸材であった寺崎広業画泊(1866~1919)伴なわれて上京し、門下生となり、翌29年東京美術学校・日本画科選科に入学したが31年美校騒動で、寺崎広業画伯とともに退学、黒田清輝画伯率いる 白馬会で洋画を学んだ。

明治40年(1907年)第1回の文展に「辻説法」(2等賞、文部省買い上げとなり、現在東京現代美術館に保管)を発表し、一躍花形となった。 その年、大阪朝日新聞社に入社して、夏目漱石作の「坑夫」の挿絵を担当した。大正6年(1917年)退社し上京した。
 大正12年(1923)吉祥寺東町に土地を購入し、翌年より死ぬまで当地に居住されていた。しかし昭和8年(1933)まで上根岸に、同年 2月から19年3月まで、高井戸に画室があった。.

 画伯の作品は、歴史上の人物を主題にしている作品が得意で、堅実な仕事の底に、歴史に対する深い素養をそなえていた。

代表作に「恵林寺の快川」(昭和17年発表、政府買い上げ)などがある。その後、昭和40年春叙勲で勲三等瑞宝章を授与された。

 6年後の昭和46年、11月2日午前0時45分、老衰のため、91歳の天寿を全うされた。





昭和30年第11回日本美術展

    「山稼ぎ」